二つの生命観

法華経方便品に二つの生命観が説かれています。

「諸法は本よりこのかた常に自ら寂滅の相なり」

と、

「是の法住は法位にして世間の相常住なり」

とです。


前者は、あらゆるものは死滅することを本来の事実をはっきりと認識するものです。

一方で、後者は、あらゆるもの法則に従って常に補充されていて、世間は常住不滅であるとするのですが、これもまた事実をありのままに表現するものです。


個の人は、生まれて来て、一定の時間生きて、死して消えて行く。けれど社会を見れば、毎日多くの人が亡くなって火葬場で荼毘にふされるのと同時に、産院では新しいたくさんの命が生まれています。


個々の生命を一人ひとりに見れば、皆滅んでしまうけれど、社会を組織する共同の生命体を見てみると、新陳代謝が繰り返されて、滅びるということはないのです。


親なる生命体が、子なる新生命体に生存のバトンを渡して消えていく行為を繰り返しつつ、無限の過去から永遠の未来に向って、生命を伝えています。


個人は要するに大きな生命体の一部であり、常に全体の生命に継がって存在しています。にもかかわらず生命を個人が所有しているように錯覚するから、人間の欲望と生命の現実とに喰い違いが起こって来るのです。


素より生命は宇宙に実存するものであり、互いに交流して維持されるように出来ています。例えば肉体を構成して維持する条件は、自然界から食物を摂取し、空気を呼吸することによって成り立っています。この事実は個人の生命はそのまま大自然の所産であることを物語るのです。


自分だけの生命というものはありません。大きな生命体を分け合っていると見るのがごく当然です。不生不滅の大生命体に、自分の生命の根があることに気が付けば、その人の人生は根本から変わるでしょう。